9.28.2008

追悼・横田洋一氏

横田洋一氏が9月22日、がんのため逝去された。67歳だった。神奈川県立博物館に長く勤められ、バブル期の美術館・博物館活動の最盛期に、ワーグマン展、五姓田義松展などラーフワークの研究を結実させた、その功績はあまりにも大きく、今後これらを超える企画展の開催はむずかしいと言っていいと思う。
これら2つの展覧会に明治美術(研究)学会の総力と、横浜の学際的なネットワークをオーガナイズした力についても、はっきりとは目に見えないものだが、まさしく人徳の賜物だった。

ワーグマンとライバル関係にあるという認識からか、ピエロ祭はほとんど皆勤にして、いつも最後まで残って呑み続けていた。当初、面識がほとんどないにもかかわらず、二つ返事で若い小娘の考えた集まりにお出かけくださったときのことが忘れられない。3月8日の外人墓地でのポンチ花まつりに対抗したというだけの、そしてビゴーの好物の牛タンを食べるという無鉄砲なパーティ企画にもかかわらず横田氏は出席してくださった。幕末・明治の貧しくも果敢な、美術という範疇もまだないなかでの技芸について、関心をもつ人々の集う、ささやかだが心の通う会合というものを大切にし、またそれを呑む口実にしながら楽しい人生を送られたと思う。

横田氏は、シャイな人であって、1次会ではなく、2次会後半から現れる青江美奈の伊勢佐木町ブルースとか森進一のまねはなかなかのもので、「チャールズ・横田なーんちゃって」と自称していても、全く英国風紳士の片鱗もなかったところがおかしかった。禁酒法が最もターゲットにしたかった一人かもしれない。

ピエロ祭を我が家で行うようにしてからも、また、復活として始めた1998年以降もお訪ねくださって、心ばかりの手料理に対して謝意を示されたのが印象的だった。

昨年、お目にかかったときあまりにやせておられて驚いた。また、この度の神奈川県立博物館における五姓田展に際して、後期展示のあった、横田氏発掘の義松の絵「根岸友山像」についても、生気の薄い老人像だったことが妙に気がかりだった。しかし、遺稿となった図録掲載のこの絵に関する論考は、義松探究への深い情熱に溢れていた。お見舞いのカードを買って何を書こうかと、ぼんやり考えている最中に、まさしく訃報を受けてしまった。いま書いている、ビゴー研究の集大成について原稿ができたらぜひ見ていただきたいということをしたためるつもりだった。

ピエロ祭の隠れた目的は、神奈川県内の近代史にかかわる人的ネットワークができることだった。横田氏の通夜の席でさまざまな人が語り合う姿のなかに、一瞬その幻影を見た思いがした。

この週末、東大で偶然手にした、Japan HeraldにいたE.J.Mossの回顧談には、横浜居留地の人々を愉しませたワーグマンとビゴーへの賛辞と、ワーグマンの『ジャパン・パンチ』終刊に際してビゴーが横浜の波止場で別れを告げる、『トバエ』の一枚が添えられていた。何度もみてきた、愛らしくほほえましいページだが、初めて胸につまる悲しさをもってみた。

ビゴーとワーグマンは永遠のライバルである。ワーグマン展の研究の深さに対して、少しでも恥じないものをビゴーについて残すつもりである。

謹んで心からご冥福をお祈りいたします。   山口順子