12.05.2006

あるビゴー展の風情

震災前に伊丹市立美術館に行ったことがあった。JR駅から歩いたはずだが街なみとしては微かに白雪酒造の建物のそばを通ったような記憶しかない。その美術館は、諷刺をコレクションの柱にするという珍しいコンセプト、ビゴーの大きなコレクションも話題になっていた。1992年の秋だったようである。そのころ私は横浜市民ギャラリーの仕事をしていた。ビゴーを追いかけて横浜市役所に就職した私にとって、初めての文化行政にかかわる部署でようやく自分のやりたかった仕事ができるようになったという実感があった。しかし、ビゴーからは遠かった。1987年の美術館連絡協議会図録作成過程において、ビゴーの受容過程を精査した研究書目に関する『郷土よこはま』98・99号、101号の拙稿が参考文献表に転写され、その最後には転写した男性学芸員が展覧会に乗じて書いた短文タイトルが付加されているということが起きた。ご活用くださいといって渡したのは自分である。しかし世の中にはこういう汚いことをする人が実際にいるのだと思った。その後、この図録はフランスにあるビゴーの作品の売立目録のように機能し、各地の自治体が作る美術館への収蔵が増えていった。私は、ビゴーが美術市場で商品化されるプロセスを遠くから冷視するようになった。伊丹市立美術館に足を向けたのはそのようなころだった。地下展示室の最初のケースにあったドーミエの彫像に、思わずほほが緩んだ。

その美術館から「諷刺画講座」でビゴーについて講演してほしいという依頼をいただいた。ビゴーの小企画も展示されるという。今度は大事故を起こしたJRを避けて阪急側から歩いた。町並みは震災後の整備を終えて、ジャズのライブ、クラフトアートを売るテントなど工夫をこらしたイベントが繰り広げられ、曇り空の下でアーティストの卵たちが自作を広げていた。このような町の雰囲気のなかでビゴーの作品が並んでいるなんて・・・本人はご満悦のはずと思えた。1980年代初頭には横浜でも小企画の展覧会が大仏次郎記念館や横浜開港資料館で行われたが、身の丈ほどに並べられたビゴーの作品を疲れることなく見ることができる、そういうことも今やほとんどなくなってしまった。各地の自治体に血税を使って入ったビゴーの作品はどうなっているのか。指定管理者制度のもとで市場原理に則った展覧会が優先されていけば、おそらく死蔵されたままになっていくのだろう。

今回の伊丹市立美術館所蔵品展「ビゴーによる明治の女性たち」(12月17日まで)は銅版画集を中心としたものだった。フェリックス・ビュオから学んだという銅版画技術だけでなく、やはりビュオが率先して教育していた、ドローイングにおける対象物の自由な直接描写といった技が、浮世絵でしか見たことがなかった日本の風俗を活写したいという切なる思いとともに存分に生かされている。展示のなかに制作年不詳の、今、書いたばかりのような美しいメニューが3点あった。美好というサインは面相筆できれいにかけていたので、左利きのビゴーについて詮索した以前のことと比べると、漢字名の筆書きをかなりものにしていたようすがうかがえる。3点のメニューは京都を思わせる風俗を書き添えた、アルバイト的な仕事のものであろう。Hotel des Colonies(オテル・デ・コロニーズ)の記載があった。このホテルは神戸居留地56番にあってビゴーの雑誌「ル・ポタン」の販売所ともなっていたから、京都滞在時ころのものと考えられる。この京都滞在年については、野村芳光の老年期の記憶をもとに明治26年とされているが、実は少し早い。野村芳国を研究された岡本裕美さんが明治24年と推定されているし、戦前の野村芳光を紹介した略伝にも明治24年来遊したビゴーに師事したことが記されている。さらに、明治26年後半にはビゴーが東京の私塾で画学教師として雇われている史料を最近私は発見している。したがって、明治24年以降明治20年代半ばに描かれたものであろう。

講演では年譜と「トバエ」について、ジャーナリズム史学の立場からできるだけ実証的にお話した。作品の精緻な検討なく想像や推定からなされている事柄について、いくつか修正を提示した。最も重要なのは、先の図録参考文献で転写されたときになぜか省かれた部分にある。ビゴー研究家となりすました編者がその重要性に気づかなかったのだろう。あるいは、中江兆民の仏学塾が「トバエ」に関与したという定説がつくられるために操作する必要があったのかもしれない。しかし、改めて問いたい。中江兆民の周辺から、同時代の証言として、あるいは公文書に準じた史料によってそうした裏づけはとれているのか、と。
私は、反証となる状況証拠を講演のなかでお話した。「トバエ」には新体詩人・中西梅花が協力していると、内田魯庵が証言したことは間違いではなかったと考える。
気がついたら、来年はビゴー没後80年である。「思想としてのビゴー」を私なりに上梓できるように尽力したい。(山口順子)

8.12.2006

ピエロ祭について
















La Fête de Pierrot : 1982年年頭に私は考えた。イギリス人画家チャ-ルズ・ワーグマンには、命日2月8日に横浜の外国人墓地で行われるポンチ・ハナ祭りがある。記念碑のないジョルジュ・F・ビゴーのためにお祭りがあってもよいではないか。名前は、彼が自分のキャラクターとしていたピエロの祭りとしよう。

ピエロ祭に必ず食べるメニューは、牛タンである。ビゴーに京都で絵を学んだ野村芳光は、1893(明治26年)当時の話として、ビゴーの自炊生活のなかで「・・・料理は大方、焙いたり煮たりした牛肉で、特に牛の舌が好物であった。タバコと酒が好きだった。磊落で、勿体ぶらないで、冗談ずきで、庶民と親しくしていた。日本語がうまかった。・・・」(鈴木秀三郎著『本邦新聞の起原』より)と伝えている。

こうしてピエロ祭は、1882年1月26日の来日記念日にちなんで、前後の吉日を選んで続けられていた。しかし、雪の降る日もあって遠方の来会者に気の毒ではないかと思い、2005年からビゴーの誕生月である4月の気候のよい日に開催することにした。

左利きのビゴー

ひと月ほど前、ほつれかけたプルオーバーの袖口を編みなおそうと、20年ぶりに鈎針編みをやってみたところ、病み付きになりそうな勢いである。そして、ふと、左利きの人は鈎針をどう持つのかと考え、では鉛筆は、筆は、と考えながら、そういえばビゴーは左利きだったことを思い出した。高校時代の同級生で、現代書家として活躍している森岡静江さんにさっそくメールをしたところ、筆の持ち方は基本的に創造行為には影響しない。入門者には一応持ち方を教えるけれど、とのことだった。トメやはらいは右利きに有利かどうかと質問したところ、書道には字を書くこと以外に彫ることもあり、篆刻、象形文字など自由な書き方のもとでは、左利きハンディはないだろうという専門家らしいお答えが帰ってきた。

なるほど、刻字にハンディなし、そこではたと思い至る点があった。ビゴーのサインは極端に左下へ傾斜しているし、日本文字でのサインにはある種の傾向がある。それは、肉筆には美好といった漢字のサイン、銅版画にはビゴーと縦書きに入ることである。これについて、私は、美好と書くのは、漢字も書けるという彼なりの優越感の表れ、カタカナは日本人に向けても外国人を意識して、というようなことを考えてみた。しかし、彼は左利きだから美好はいわゆる仮名釘流でやっと書いているところがある。お手本らしき、隷書の字も資料には見られるが、それとの差は歴然としている。しかし、カタカナの「ビゴー」は単純な直線だから、刻字として銅版画に彫るのはたやすいことだった。これが真相ではないだろうか。

ビゴーはおそらく日光への旅行で左甚五郎のことを知った。そしてわざと「シダリジンゴロウ」などと、自称して見せた。Hの音のないフランス語ではイダリジンゴロウになってしまうが、シとヒの区別のない江戸言葉をうまくしゃれてそういったのだろう。彼のおどけた笑顔が目に浮かぶようだ。


追記 その後、左利き-レフティの人のためのサイトをいろいろと見るうち、同盟の動きやユニバーサルデザインの照会がネットを通じて行われていることがわかった。
書道の本や編み物のキットなどは、フェリッシモhttp://www.felissimo.co.jp/left/で販売されている。鉤針編みについては、英語のサイトになるがクロシェ・ギルド・イン・アメリカが左利き用の学習サイトを作っている。この画像の作り目のところをためしにダウンロードして、反転させてみたところ、手持ちの教則本と一致した。例えば、既存の右利き用の編み方の図をスキャナーで読み取り、水平方向に反転させると左利き用になるかもしれない。お試しいただきたい。
追記・その2 実際に両手ききの人に聞いたところ、鈎針編みを教える場合、学習者と面と向かってすわり、自分がやることと同じように、鏡をみているように手を動かすように指導するとよいそうである。背後にまわって針を使うと、指導者は混乱するからだという。糸のよりが右利き有利だから左利きはきれいにできないという説は疑問だ。リボン状のものやリリアン風の糸などさまざまな素材が出回っているから、利きうでには関係なく、人とは違った個性的な作品をつくることをめざすのが現代的な編み物の世界だろうと思う。

4.20.2006

ビゴーの熨斗紙

今年もBSEのおかげで、牛タンの入手が難しいと頭を痛めていると、杜若文庫の森登さんから、珍しい銅板画のコレクションをデジタル画像で見せていただく機会を得た。熨斗紙のような形のなかに、コックさんが描かれている。 トクというふちなしの白い帽子をかぶり、ダブルのコックコートを着て、左手をポケットに入れ、右手で頭の上に掲げた、大きな食器を支えている。左下遠景に は煙を出す煙突があり、右下に縦書きで「ビゴー」とサインが入っている。コックさんの表情はまだ若く、ちょっとあどけなさも残して、はにかんでいるように も見える。

こうした西洋料理人の服装を着こなして働く風景はいつごろ定着したのかはわかりかねるが、ズボンのポケットに手を入れているようすと、煙突の煙が産業化が加速化していった明治20年前後のように感じれられた。








(原画は杜若文庫・森登氏所蔵による)





ビ ゴーの著名な銅板画集は明治10年代後半までに初版が刷られたようである。明治15年に来日して、まだ髷を切っていない、浮世絵から抜き出てきたような庶 民の諸相や、路傍の放浪者、時に寺の門前にたたずんで物乞いをする病者までしっかりと視野に入れて、近代化の途上を描こうとした。

くだんのデジタル画像を銅版の枠どおりに四角く切って、小さな箱を包んでみるとぴったりで、おみやげなどを包んで渡す熨斗紙としてちょっとしゃれた感じだ。店の名前もないことから、私は私的な版の感じを受けた。

来 日直後から、ビゴーはさまざまな内職をして生活していたようである。ワーグマンの「ジャパン・パンチ」にもフランス革命記念日のために装飾ものを引き受け ているようすが書かれており、精力的に仕事をこなし、しかも卓抜したうまさを「ベラスケスのようだ」とからかわれている。その後も後見人だったフランス人の家のメ ニュー書きとかをやっていたようだ。

ちょうど『正月元日』という明治23年の諷刺画集のなかに、在日外国人の家の雇われ人たちが大枚のお年玉をばらまかれ、ひっくりかえっているようすが書かれており、そのなかの一人はこのコックさんと同じ服装をしている。

こ の銅版もそうした家の注文で書かれ、ビゴーは腕をあげつつあるこの若い料理人を主人公にして、手にはその家の特徴ある大切な銀食器をもたせ、印象深かった 正餐の思い出とともに、手土産を渡せるようにくふうしたのではないか。もらった客人たちは、おいしかった料理と楽しい会話のひとときのことを、帰宅後にま た思い出し、また料理人の腕前について知り合いに語って聞かせたりもしただろう。

そういうお土産を渡せるようなピエロ祭にしたいものである。

4.19.2006

過去の記録 2002-2005

2002年1月26日 横浜市緑区・山口順子宅
2003
年2月23日 横浜市緑区・山口順子宅
2004年1月24日 横浜市緑区・山口順子宅
2005
年4月30日 横浜市緑区・山口順子宅・プレイベント










満開の小さな藤の木と、遺族からいただいたビゴーの小さなドローイング。1918年にノルマンディ地方のル・トレポールで描かれたもので、港で遊ぶ子供が描かれている。
額装は、イタリア・シエナのVia di Cittaにある額屋さんに私の宝物のために、と頼んだもの。額屋さんは、薄い緑色の額を慎重に選んで、金色の枠線をうまくつけてくれた。

過去の記録 1982-2001

1982年1月26日 横浜・関外たんや(15人)来日100周年
1983年1月26日 横浜駅西口・辰巳(13人)
1984年1月26日 横浜駅西口・辰巳(13人)
1985年1月26日 横浜・野毛地区センター~末広(17人)
1986年1月26日 横浜・西地区センター~辰巳(18人)
1987年1月26日 横浜市港北区・山口順子宅(9人)
1988年1月26日 横浜市港北区・山口順子宅(7人)
1989年1月26日 横浜市中区・末次万実邸(10人)
1990年1月26日 横浜・関内レストランコルス(7人)
1992年1月26日 横浜・関内レストランコルス(7人)来日110周年
(この間プライベートパーティとして実施)
1999年1月28日 横浜市緑区・山口順子宅 復活ピエロ祭8時間
2000年1月29日 横浜市緑区・山口順子宅
2001
年1月(大雪で中止・丘の上のマンションからの帰路危険のため)



ピエロ祭2000(横田洋一氏撮影)