1月14日(土)澄み切った青空に、粉砂糖を振りかけたような日光の山々が美しく映える週末となった。日光の空気は凛として冷たく、清らかだった。
来日130周年のビゴー展は、私が理想とする大きさの展示空間に厳選された作品がテーマに沿って並んでいた。これまでの展覧会もそれぞれよかったが、なかにはキュレーションの介在がなく、貸し会場と化した美術館に、ビゴーといえば、作品の良し悪しの吟味もなく出展され、かえって美術家としての評価を落としてしまう恐れなしという感をもったときもあった。
しかし、今回は自分自身がその空間の性質を知り尽くしている学芸員の人の眼がしっかりと生きていた。また、磐梯山噴火や三陸大津波取材といった、土地と時機に一致したテーマについて、実際に掲載された紙面とともに丁寧に紹介されていた。
講演では、ビゴーが来日前にかかわった「ラ・ヴィ・モデルヌ紙」のコンポジション作品を掲出した。挿絵画家というよりは駆け出しのイラストレーターだったが、創作かカットかよく見極められていないまま最近の刊行物に出されている。本人の創作として全頁大で扱われているものはごくわずかである。今回の図録に入れていただいたが、縮小されているため、実際の紙面の大きさを実感していただきたかった。また、ジョルジュ・ラビの日本旅行の思い出を語った講演録とそこに登場する、ビゴーが歌ったシャンソンと思われる曲を最後に流した。ビゴーの祖父と交友関係にあったベランジェや、国民的な人気のあったナドーの歌である。いずれも自由主義、共和主義を歌で主張した作家たちであり、ビゴーが幼いころから慣れ親しんだ音だったことだろう。
来日130周年ピエロ祭としてのつたない話を、熱心にお聞きくださった参加者のみなさまに改めて感謝申し上げます。(山口順子)
追記:図録解説の訂正について
p3 『改進新聞』(1888年12月9日付)→ (1886年12月9日付)
p6 謝辞 Julian Béal → Julien Béal
Philipp Gutenus → Philipp Gudenus
p13 注13 ジャンヌ・ロンセイはビゴーの次女 → 削除
p15 <日光写真帖> No24[東照宮 唐門と拝殿] → [日光山輪王寺大猷院 唐門と拝殿]
#Bigot #Georges.F.Bigot
La Fête de Pierrot
ピエロ祭(ぴえろさい)は1882年1月26日来日し、横浜居留地を中心に多数の諷刺雑誌を発行した、フランス人画家のジョルジュ・フェルディナン・ビゴーを記念して、1982年から横浜で行われているお祭。メディア史を研究する山口順子が主宰している。
1.16.2012
12.11.2011
来日130周年記念 宇都宮美術館コレクションによる<ジョルジュ・ビゴーと日光>展始まる
会期:2011年12月10日(土)から2012年1月29日(日)
栃木県日光市
小杉放菴記念日光美術館
会期中の1月26日がビゴーの来日した日です。
第一泊目の宿・今村屋のスケッチも展示されています。
栃木県日光市
小杉放菴記念日光美術館
会期中の1月26日がビゴーの来日した日です。
第一泊目の宿・今村屋のスケッチも展示されています。
10.24.2011
消えるビゴーの「中江兆民」像
ビゴーが中江篤介(兆民)像を描いたということは何を持って確定されたのか。
私の手元には、ビゴーをテーマとした「ショッキング・オ・ジャポン」という1984年文化庁芸術祭受賞映画の監督・藤林伸治氏(1994年逝去)が遺した調査レポート(B4・写真に手書き説明、43ページ)コピーがある。ご本人からも、また同行したエレーヌ・コルヌヴァン氏(故人)からも等しく提供されたものでフランスのビゴーの遺族と作品を取材記録である。その32ページには、1887年7月修善寺で描いた、白い浴衣姿の男の素描の、上から付されたフレーム状の枠について「この部分は表装の際覆われ僅かに②の部分のみ判読し得る」と但し書きがあって、②の部分に「Tokusuke」とされている。その横に
「『三酔人問答』を仕上げた直後の中江兆民像と思われる(兆民はその頃ひどいアルコール中毒と神経症に悩んでいた。ビゴーがどのような心境でこの焦悴したTokusukeを描いたのであろう。-ビゴー自身の投影か)」<以上引用>
という藤林氏の自筆でメモが記されている。藤林氏は『中江兆民全集第五巻』(岩波書店,1984年7月)「月報9」にもこの発見について記している。さらにコルヌヴァン氏が企画し、1987年に開催された美術館連絡協議会主宰の展覧会図録(監修・エレーヌ・コルヌヴァン、清水勲)ではタイトル「中江兆民像」となっており、この時点では確定されていた。
私は、永らくこの像の確定に美術史の専門家が誰も立ち会っていないことに疑問を持っていた。佛学塾に雇われていたことのあるビゴーとしてみれば、雇用主でしかも大人物の兆民をこのような中途半端な素描で書くだろうかとも考えていた。そこで、最終的にこの素描を受け入れた宇都宮美術館を訪ねて、問題のフレームをこの目で見てみたいと思っていた。思いつつできなかったのは、ここ数年、親の介護問題や義父の逝去に伴うさまざまな雑事に追われていたからである。ようやく落ち着いてきたころ、小杉放菴記念日光美術館が改修中の宇都宮美術館所蔵作品を一時預かっているとの情報がもたらされ、実見する機会を得た。
ところが、宇都宮美術館収蔵当時から素描はフレームを伴わない状態だったという。作品タイトルも「修善寺の温泉客」(所蔵番号B56)にしているとのことだった。私は困惑し、猛暑のなか法政大学大原社会問題研究所所蔵となっている藤林氏の映画制作資料を閲覧した。作成報告書というスクラップに張り込まれた本人の手製のドキュメント集成では、私の所蔵する藤林氏作成のレポートと同一のものは全く存在しなかった。白いフレームのままの写真が張り込まれ、上記のメモは全くなかった。また、取材撮影写真の記録では、真っ白いフレームの横の余白に縦書きのペンで「中江兆民」との書きこみが見られるだけだった。
この再証不能状態は史的根拠がそもそもなかったか、ある時点で失われてしまったということを意味している。
仮にフレームに「Tokusuke」と書かれていたとしても、トクスケという人なのかどうかは不明だ。また、中江トクスケであったとしても、フレームと原画の素描の関係は慎重に検討する必要である。 もし、素描をもとに中江トクスケとフレームに記したことが立証されたとしても、そこからビゴーが自由民権運動に加わり、中江兆民がビゴーの「トバエ」編集にかかわったとまで論ずることは飛躍がありすぎる。
故・藤林氏は、自由民権運動100年記念で得た映画制作予算を元にフランスで取材を続け、なんとしても自由民権運動とビゴーを結び付ける根拠を得たいと考えていた。当時存続していた著作権継承の及ばない範囲の、南仏の遺族関係者の家で、憔悴した兆民のように見えた男、修繕寺の一湯治客の像からフィクションとしてドキュメンタリ映画に華を副えようとしたのかもしれない。この創作過程について、私は問うつもりは全くない。
問題は、ドキュメンタリー映画とはいえ、シナリオには史的根拠から離れたところも多い創作的な映像を史料と取り違え、憶測を重ねてしまった人達の歴史研究に関する手続きにある。また、美術史の傍流にいたビゴーに中江兆民というビッグネームをつけることに、出版市場、イベント化した美術展示市場は安易に便乗してきたのである。そして、作品の市場価値は上がり、当然、投資回収効果も上がったと推定される。
初出は、管見の限り「ビゴー素描コレクション2 明治の世相」(岩波書店、1989年)であり、一連の岩波書店の出版物によって、現在では、漫画史では定説となっているこの誤謬は誤謬として、正当な手続きをもって訂正されるべきであり、研究上の最低限の倫理を、私は要求したい。
ビゴーの「中江兆民像」は消費し尽くされたのち、ひっそり姿を消しつつある。(山口順子)#Bigot #GeorgesBigot
私の手元には、ビゴーをテーマとした「ショッキング・オ・ジャポン」という1984年文化庁芸術祭受賞映画の監督・藤林伸治氏(1994年逝去)が遺した調査レポート(B4・写真に手書き説明、43ページ)コピーがある。ご本人からも、また同行したエレーヌ・コルヌヴァン氏(故人)からも等しく提供されたものでフランスのビゴーの遺族と作品を取材記録である。その32ページには、1887年7月修善寺で描いた、白い浴衣姿の男の素描の、上から付されたフレーム状の枠について「この部分は表装の際覆われ僅かに②の部分のみ判読し得る」と但し書きがあって、②の部分に「Tokusuke」とされている。その横に
「『三酔人問答』を仕上げた直後の中江兆民像と思われる(兆民はその頃ひどいアルコール中毒と神経症に悩んでいた。ビゴーがどのような心境でこの焦悴したTokusukeを描いたのであろう。-ビゴー自身の投影か)」<以上引用>
という藤林氏の自筆でメモが記されている。藤林氏は『中江兆民全集第五巻』(岩波書店,1984年7月)「月報9」にもこの発見について記している。さらにコルヌヴァン氏が企画し、1987年に開催された美術館連絡協議会主宰の展覧会図録(監修・エレーヌ・コルヌヴァン、清水勲)ではタイトル「中江兆民像」となっており、この時点では確定されていた。
私は、永らくこの像の確定に美術史の専門家が誰も立ち会っていないことに疑問を持っていた。佛学塾に雇われていたことのあるビゴーとしてみれば、雇用主でしかも大人物の兆民をこのような中途半端な素描で書くだろうかとも考えていた。そこで、最終的にこの素描を受け入れた宇都宮美術館を訪ねて、問題のフレームをこの目で見てみたいと思っていた。思いつつできなかったのは、ここ数年、親の介護問題や義父の逝去に伴うさまざまな雑事に追われていたからである。ようやく落ち着いてきたころ、小杉放菴記念日光美術館が改修中の宇都宮美術館所蔵作品を一時預かっているとの情報がもたらされ、実見する機会を得た。
ところが、宇都宮美術館収蔵当時から素描はフレームを伴わない状態だったという。作品タイトルも「修善寺の温泉客」(所蔵番号B56)にしているとのことだった。私は困惑し、猛暑のなか法政大学大原社会問題研究所所蔵となっている藤林氏の映画制作資料を閲覧した。作成報告書というスクラップに張り込まれた本人の手製のドキュメント集成では、私の所蔵する藤林氏作成のレポートと同一のものは全く存在しなかった。白いフレームのままの写真が張り込まれ、上記のメモは全くなかった。また、取材撮影写真の記録では、真っ白いフレームの横の余白に縦書きのペンで「中江兆民」との書きこみが見られるだけだった。
この再証不能状態は史的根拠がそもそもなかったか、ある時点で失われてしまったということを意味している。
仮にフレームに「Tokusuke」と書かれていたとしても、トクスケという人なのかどうかは不明だ。また、中江トクスケであったとしても、フレームと原画の素描の関係は慎重に検討する必要である。 もし、素描をもとに中江トクスケとフレームに記したことが立証されたとしても、そこからビゴーが自由民権運動に加わり、中江兆民がビゴーの「トバエ」編集にかかわったとまで論ずることは飛躍がありすぎる。
故・藤林氏は、自由民権運動100年記念で得た映画制作予算を元にフランスで取材を続け、なんとしても自由民権運動とビゴーを結び付ける根拠を得たいと考えていた。当時存続していた著作権継承の及ばない範囲の、南仏の遺族関係者の家で、憔悴した兆民のように見えた男、修繕寺の一湯治客の像からフィクションとしてドキュメンタリ映画に華を副えようとしたのかもしれない。この創作過程について、私は問うつもりは全くない。
問題は、ドキュメンタリー映画とはいえ、シナリオには史的根拠から離れたところも多い創作的な映像を史料と取り違え、憶測を重ねてしまった人達の歴史研究に関する手続きにある。また、美術史の傍流にいたビゴーに中江兆民というビッグネームをつけることに、出版市場、イベント化した美術展示市場は安易に便乗してきたのである。そして、作品の市場価値は上がり、当然、投資回収効果も上がったと推定される。
初出は、管見の限り「ビゴー素描コレクション2 明治の世相」(岩波書店、1989年)であり、一連の岩波書店の出版物によって、現在では、漫画史では定説となっているこの誤謬は誤謬として、正当な手続きをもって訂正されるべきであり、研究上の最低限の倫理を、私は要求したい。
ビゴーの「中江兆民像」は消費し尽くされたのち、ひっそり姿を消しつつある。(山口順子)#Bigot #GeorgesBigot
10.03.2009
9.28.2008
追悼・横田洋一氏
横田洋一氏が9月22日、がんのため逝去された。67歳だった。神奈川県立博物館に長く勤められ、バブル期の美術館・博物館活動の最盛期に、ワーグマン展、五姓田義松展などラーフワークの研究を結実させた、その功績はあまりにも大きく、今後これらを超える企画展の開催はむずかしいと言っていいと思う。
これら2つの展覧会に明治美術(研究)学会の総力と、横浜の学際的なネットワークをオーガナイズした力についても、はっきりとは目に見えないものだが、まさしく人徳の賜物だった。
ワーグマンとライバル関係にあるという認識からか、ピエロ祭はほとんど皆勤にして、いつも最後まで残って呑み続けていた。当初、面識がほとんどないにもかかわらず、二つ返事で若い小娘の考えた集まりにお出かけくださったときのことが忘れられない。3月8日の外人墓地でのポンチ花まつりに対抗したというだけの、そしてビゴーの好物の牛タンを食べるという無鉄砲なパーティ企画にもかかわらず横田氏は出席してくださった。幕末・明治の貧しくも果敢な、美術という範疇もまだないなかでの技芸について、関心をもつ人々の集う、ささやかだが心の通う会合というものを大切にし、またそれを呑む口実にしながら楽しい人生を送られたと思う。
横田氏は、シャイな人であって、1次会ではなく、2次会後半から現れる青江美奈の伊勢佐木町ブルースとか森進一のまねはなかなかのもので、「チャールズ・横田なーんちゃって」と自称していても、全く英国風紳士の片鱗もなかったところがおかしかった。禁酒法が最もターゲットにしたかった一人かもしれない。
ピエロ祭を我が家で行うようにしてからも、また、復活として始めた1998年以降もお訪ねくださって、心ばかりの手料理に対して謝意を示されたのが印象的だった。
昨年、お目にかかったときあまりにやせておられて驚いた。また、この度の神奈川県立博物館における五姓田展に際して、後期展示のあった、横田氏発掘の義松の絵「根岸友山像」についても、生気の薄い老人像だったことが妙に気がかりだった。しかし、遺稿となった図録掲載のこの絵に関する論考は、義松探究への深い情熱に溢れていた。お見舞いのカードを買って何を書こうかと、ぼんやり考えている最中に、まさしく訃報を受けてしまった。いま書いている、ビゴー研究の集大成について原稿ができたらぜひ見ていただきたいということをしたためるつもりだった。
ピエロ祭の隠れた目的は、神奈川県内の近代史にかかわる人的ネットワークができることだった。横田氏の通夜の席でさまざまな人が語り合う姿のなかに、一瞬その幻影を見た思いがした。
この週末、東大で偶然手にした、Japan HeraldにいたE.J.Mossの回顧談には、横浜居留地の人々を愉しませたワーグマンとビゴーへの賛辞と、ワーグマンの『ジャパン・パンチ』終刊に際してビゴーが横浜の波止場で別れを告げる、『トバエ』の一枚が添えられていた。何度もみてきた、愛らしくほほえましいページだが、初めて胸につまる悲しさをもってみた。
ビゴーとワーグマンは永遠のライバルである。ワーグマン展の研究の深さに対して、少しでも恥じないものをビゴーについて残すつもりである。
謹んで心からご冥福をお祈りいたします。 山口順子
これら2つの展覧会に明治美術(研究)学会の総力と、横浜の学際的なネットワークをオーガナイズした力についても、はっきりとは目に見えないものだが、まさしく人徳の賜物だった。
ワーグマンとライバル関係にあるという認識からか、ピエロ祭はほとんど皆勤にして、いつも最後まで残って呑み続けていた。当初、面識がほとんどないにもかかわらず、二つ返事で若い小娘の考えた集まりにお出かけくださったときのことが忘れられない。3月8日の外人墓地でのポンチ花まつりに対抗したというだけの、そしてビゴーの好物の牛タンを食べるという無鉄砲なパーティ企画にもかかわらず横田氏は出席してくださった。幕末・明治の貧しくも果敢な、美術という範疇もまだないなかでの技芸について、関心をもつ人々の集う、ささやかだが心の通う会合というものを大切にし、またそれを呑む口実にしながら楽しい人生を送られたと思う。
横田氏は、シャイな人であって、1次会ではなく、2次会後半から現れる青江美奈の伊勢佐木町ブルースとか森進一のまねはなかなかのもので、「チャールズ・横田なーんちゃって」と自称していても、全く英国風紳士の片鱗もなかったところがおかしかった。禁酒法が最もターゲットにしたかった一人かもしれない。
ピエロ祭を我が家で行うようにしてからも、また、復活として始めた1998年以降もお訪ねくださって、心ばかりの手料理に対して謝意を示されたのが印象的だった。
昨年、お目にかかったときあまりにやせておられて驚いた。また、この度の神奈川県立博物館における五姓田展に際して、後期展示のあった、横田氏発掘の義松の絵「根岸友山像」についても、生気の薄い老人像だったことが妙に気がかりだった。しかし、遺稿となった図録掲載のこの絵に関する論考は、義松探究への深い情熱に溢れていた。お見舞いのカードを買って何を書こうかと、ぼんやり考えている最中に、まさしく訃報を受けてしまった。いま書いている、ビゴー研究の集大成について原稿ができたらぜひ見ていただきたいということをしたためるつもりだった。
ピエロ祭の隠れた目的は、神奈川県内の近代史にかかわる人的ネットワークができることだった。横田氏の通夜の席でさまざまな人が語り合う姿のなかに、一瞬その幻影を見た思いがした。
この週末、東大で偶然手にした、Japan HeraldにいたE.J.Mossの回顧談には、横浜居留地の人々を愉しませたワーグマンとビゴーへの賛辞と、ワーグマンの『ジャパン・パンチ』終刊に際してビゴーが横浜の波止場で別れを告げる、『トバエ』の一枚が添えられていた。何度もみてきた、愛らしくほほえましいページだが、初めて胸につまる悲しさをもってみた。
ビゴーとワーグマンは永遠のライバルである。ワーグマン展の研究の深さに対して、少しでも恥じないものをビゴーについて残すつもりである。
謹んで心からご冥福をお祈りいたします。 山口順子
12.05.2006
あるビゴー展の風情
震災前に伊丹市立美術館に行ったことがあった。JR駅から歩いたはずだが街なみとしては微かに白雪酒造の建物のそばを通ったような記憶しかない。その美術館は、諷刺をコレクションの柱にするという珍しいコンセプト、ビゴーの大きなコレクションも話題になっていた。1992年の秋だったようである。そのころ私は横浜市民ギャラリーの仕事をしていた。ビゴーを追いかけて横浜市役所に就職した私にとって、初めての文化行政にかかわる部署でようやく自分のやりたかった仕事ができるようになったという実感があった。しかし、ビゴーからは遠かった。1987年の美術館連絡協議会図録作成過程において、ビゴーの受容過程を精査した研究書目に関する『郷土よこはま』98・99号、101号の拙稿が参考文献表に転写され、その最後には転写した男性学芸員が展覧会に乗じて書いた短文タイトルが付加されているということが起きた。ご活用くださいといって渡したのは自分である。しかし世の中にはこういう汚いことをする人が実際にいるのだと思った。その後、この図録はフランスにあるビゴーの作品の売立目録のように機能し、各地の自治体が作る美術館への収蔵が増えていった。私は、ビゴーが美術市場で商品化されるプロセスを遠くから冷視するようになった。伊丹市立美術館に足を向けたのはそのようなころだった。地下展示室の最初のケースにあったドーミエの彫像に、思わずほほが緩んだ。
その美術館から「諷刺画講座」でビゴーについて講演してほしいという依頼をいただいた。ビゴーの小企画も展示されるという。今度は大事故を起こしたJRを避けて阪急側から歩いた。町並みは震災後の整備を終えて、ジャズのライブ、クラフトアートを売るテントなど工夫をこらしたイベントが繰り広げられ、曇り空の下でアーティストの卵たちが自作を広げていた。このような町の雰囲気のなかでビゴーの作品が並んでいるなんて・・・本人はご満悦のはずと思えた。1980年代初頭には横浜でも小企画の展覧会が大仏次郎記念館や横浜開港資料館で行われたが、身の丈ほどに並べられたビゴーの作品を疲れることなく見ることができる、そういうことも今やほとんどなくなってしまった。各地の自治体に血税を使って入ったビゴーの作品はどうなっているのか。指定管理者制度のもとで市場原理に則った展覧会が優先されていけば、おそらく死蔵されたままになっていくのだろう。
今回の伊丹市立美術館所蔵品展「ビゴーによる明治の女性たち」(12月17日まで)は銅版画集を中心としたものだった。フェリックス・ビュオから学んだという銅版画技術だけでなく、やはりビュオが率先して教育していた、ドローイングにおける対象物の自由な直接描写といった技が、浮世絵でしか見たことがなかった日本の風俗を活写したいという切なる思いとともに存分に生かされている。展示のなかに制作年不詳の、今、書いたばかりのような美しいメニューが3点あった。美好というサインは面相筆できれいにかけていたので、左利きのビゴーについて詮索した以前のことと比べると、漢字名の筆書きをかなりものにしていたようすがうかがえる。3点のメニューは京都を思わせる風俗を書き添えた、アルバイト的な仕事のものであろう。Hotel des Colonies(オテル・デ・コロニーズ)の記載があった。このホテルは神戸居留地56番にあってビゴーの雑誌「ル・ポタン」の販売所ともなっていたから、京都滞在時ころのものと考えられる。この京都滞在年については、野村芳光の老年期の記憶をもとに明治26年とされているが、実は少し早い。野村芳国を研究された岡本裕美さんが明治24年と推定されているし、戦前の野村芳光を紹介した略伝にも明治24年来遊したビゴーに師事したことが記されている。さらに、明治26年後半にはビゴーが東京の私塾で画学教師として雇われている史料を最近私は発見している。したがって、明治24年以降明治20年代半ばに描かれたものであろう。
講演では年譜と「トバエ」について、ジャーナリズム史学の立場からできるだけ実証的にお話した。作品の精緻な検討なく想像や推定からなされている事柄について、いくつか修正を提示した。最も重要なのは、先の図録参考文献で転写されたときになぜか省かれた部分にある。ビゴー研究家となりすました編者がその重要性に気づかなかったのだろう。あるいは、中江兆民の仏学塾が「トバエ」に関与したという定説がつくられるために操作する必要があったのかもしれない。しかし、改めて問いたい。中江兆民の周辺から、同時代の証言として、あるいは公文書に準じた史料によってそうした裏づけはとれているのか、と。
私は、反証となる状況証拠を講演のなかでお話した。「トバエ」には新体詩人・中西梅花が協力していると、内田魯庵が証言したことは間違いではなかったと考える。
気がついたら、来年はビゴー没後80年である。「思想としてのビゴー」を私なりに上梓できるように尽力したい。(山口順子)
その美術館から「諷刺画講座」でビゴーについて講演してほしいという依頼をいただいた。ビゴーの小企画も展示されるという。今度は大事故を起こしたJRを避けて阪急側から歩いた。町並みは震災後の整備を終えて、ジャズのライブ、クラフトアートを売るテントなど工夫をこらしたイベントが繰り広げられ、曇り空の下でアーティストの卵たちが自作を広げていた。このような町の雰囲気のなかでビゴーの作品が並んでいるなんて・・・本人はご満悦のはずと思えた。1980年代初頭には横浜でも小企画の展覧会が大仏次郎記念館や横浜開港資料館で行われたが、身の丈ほどに並べられたビゴーの作品を疲れることなく見ることができる、そういうことも今やほとんどなくなってしまった。各地の自治体に血税を使って入ったビゴーの作品はどうなっているのか。指定管理者制度のもとで市場原理に則った展覧会が優先されていけば、おそらく死蔵されたままになっていくのだろう。
今回の伊丹市立美術館所蔵品展「ビゴーによる明治の女性たち」(12月17日まで)は銅版画集を中心としたものだった。フェリックス・ビュオから学んだという銅版画技術だけでなく、やはりビュオが率先して教育していた、ドローイングにおける対象物の自由な直接描写といった技が、浮世絵でしか見たことがなかった日本の風俗を活写したいという切なる思いとともに存分に生かされている。展示のなかに制作年不詳の、今、書いたばかりのような美しいメニューが3点あった。美好というサインは面相筆できれいにかけていたので、左利きのビゴーについて詮索した以前のことと比べると、漢字名の筆書きをかなりものにしていたようすがうかがえる。3点のメニューは京都を思わせる風俗を書き添えた、アルバイト的な仕事のものであろう。Hotel des Colonies(オテル・デ・コロニーズ)の記載があった。このホテルは神戸居留地56番にあってビゴーの雑誌「ル・ポタン」の販売所ともなっていたから、京都滞在時ころのものと考えられる。この京都滞在年については、野村芳光の老年期の記憶をもとに明治26年とされているが、実は少し早い。野村芳国を研究された岡本裕美さんが明治24年と推定されているし、戦前の野村芳光を紹介した略伝にも明治24年来遊したビゴーに師事したことが記されている。さらに、明治26年後半にはビゴーが東京の私塾で画学教師として雇われている史料を最近私は発見している。したがって、明治24年以降明治20年代半ばに描かれたものであろう。
講演では年譜と「トバエ」について、ジャーナリズム史学の立場からできるだけ実証的にお話した。作品の精緻な検討なく想像や推定からなされている事柄について、いくつか修正を提示した。最も重要なのは、先の図録参考文献で転写されたときになぜか省かれた部分にある。ビゴー研究家となりすました編者がその重要性に気づかなかったのだろう。あるいは、中江兆民の仏学塾が「トバエ」に関与したという定説がつくられるために操作する必要があったのかもしれない。しかし、改めて問いたい。中江兆民の周辺から、同時代の証言として、あるいは公文書に準じた史料によってそうした裏づけはとれているのか、と。
私は、反証となる状況証拠を講演のなかでお話した。「トバエ」には新体詩人・中西梅花が協力していると、内田魯庵が証言したことは間違いではなかったと考える。
気がついたら、来年はビゴー没後80年である。「思想としてのビゴー」を私なりに上梓できるように尽力したい。(山口順子)
8.12.2006
ピエロ祭について
La Fête de Pierrot : 1982年年頭に私は考えた。イギリス人画家チャ-ルズ・ワーグマンには、命日2月8日に横浜の外国人墓地で行われるポンチ・ハナ祭りがある。記念碑のないジョルジュ・F・ビゴーのためにお祭りがあってもよいではないか。名前は、彼が自分のキャラクターとしていたピエロの祭りとしよう。
ピエロ祭に必ず食べるメニューは、牛タンである。ビゴーに京都で絵を学んだ野村芳光は、1893(明治26年)当時の話として、ビゴーの自炊生活のなかで「・・・料理は大方、焙いたり煮たりした牛肉で、特に牛の舌が好物であった。タバコと酒が好きだった。磊落で、勿体ぶらないで、冗談ずきで、庶民と親しくしていた。日本語がうまかった。・・・」(鈴木秀三郎著『本邦新聞の起原』より)と伝えている。
こうしてピエロ祭は、1882年1月26日の来日記念日にちなんで、前後の吉日を選んで続けられていた。しかし、雪の降る日もあって遠方の来会者に気の毒ではないかと思い、2005年からビゴーの誕生月である4月の気候のよい日に開催することにした。
左利きのビゴー
ひと月ほど前、ほつれかけたプルオーバーの袖口を編みなおそうと、20年ぶりに鈎針編みをやってみたところ、病み付きになりそうな勢いである。そして、ふと、左利きの人は鈎針をどう持つのかと考え、では鉛筆は、筆は、と考えながら、そういえばビゴーは左利きだったことを思い出した。高校時代の同級生で、現代書家として活躍している森岡静江さんにさっそくメールをしたところ、筆の持ち方は基本的に創造行為には影響しない。入門者には一応持ち方を教えるけれど、とのことだった。トメやはらいは右利きに有利かどうかと質問したところ、書道には字を書くこと以外に彫ることもあり、篆刻、象形文字など自由な書き方のもとでは、左利きハンディはないだろうという専門家らしいお答えが帰ってきた。
なるほど、刻字にハンディなし、そこではたと思い至る点があった。ビゴーのサインは極端に左下へ傾斜しているし、日本文字でのサインにはある種の傾向がある。それは、肉筆には美好といった漢字のサイン、銅版画にはビゴーと縦書きに入ることである。これについて、私は、美好と書くのは、漢字も書けるという彼なりの優越感の表れ、カタカナは日本人に向けても外国人を意識して、というようなことを考えてみた。しかし、彼は左利きだから美好はいわゆる仮名釘流でやっと書いているところがある。お手本らしき、隷書の字も資料には見られるが、それとの差は歴然としている。しかし、カタカナの「ビゴー」は単純な直線だから、刻字として銅版画に彫るのはたやすいことだった。これが真相ではないだろうか。
ビゴーはおそらく日光への旅行で左甚五郎のことを知った。そしてわざと「シダリジンゴロウ」などと、自称して見せた。Hの音のないフランス語ではイダリジンゴロウになってしまうが、シとヒの区別のない江戸言葉をうまくしゃれてそういったのだろう。彼のおどけた笑顔が目に浮かぶようだ。
追記 その後、左利き-レフティの人のためのサイトをいろいろと見るうち、同盟の動きやユニバーサルデザインの照会がネットを通じて行われていることがわかった。
書道の本や編み物のキットなどは、フェリッシモhttp://www.felissimo.co.jp/left/で販売されている。鉤針編みについては、英語のサイトになるがクロシェ・ギルド・イン・アメリカが左利き用の学習サイトを作っている。この画像の作り目のところをためしにダウンロードして、反転させてみたところ、手持ちの教則本と一致した。例えば、既存の右利き用の編み方の図をスキャナーで読み取り、水平方向に反転させると左利き用になるかもしれない。お試しいただきたい。
追記・その2 実際に両手ききの人に聞いたところ、鈎針編みを教える場合、学習者と面と向かってすわり、自分がやることと同じように、鏡をみているように手を動かすように指導するとよいそうである。背後にまわって針を使うと、指導者は混乱するからだという。糸のよりが右利き有利だから左利きはきれいにできないという説は疑問だ。リボン状のものやリリアン風の糸などさまざまな素材が出回っているから、利きうでには関係なく、人とは違った個性的な作品をつくることをめざすのが現代的な編み物の世界だろうと思う。
なるほど、刻字にハンディなし、そこではたと思い至る点があった。ビゴーのサインは極端に左下へ傾斜しているし、日本文字でのサインにはある種の傾向がある。それは、肉筆には美好といった漢字のサイン、銅版画にはビゴーと縦書きに入ることである。これについて、私は、美好と書くのは、漢字も書けるという彼なりの優越感の表れ、カタカナは日本人に向けても外国人を意識して、というようなことを考えてみた。しかし、彼は左利きだから美好はいわゆる仮名釘流でやっと書いているところがある。お手本らしき、隷書の字も資料には見られるが、それとの差は歴然としている。しかし、カタカナの「ビゴー」は単純な直線だから、刻字として銅版画に彫るのはたやすいことだった。これが真相ではないだろうか。
ビゴーはおそらく日光への旅行で左甚五郎のことを知った。そしてわざと「シダリジンゴロウ」などと、自称して見せた。Hの音のないフランス語ではイダリジンゴロウになってしまうが、シとヒの区別のない江戸言葉をうまくしゃれてそういったのだろう。彼のおどけた笑顔が目に浮かぶようだ。
追記 その後、左利き-レフティの人のためのサイトをいろいろと見るうち、同盟の動きやユニバーサルデザインの照会がネットを通じて行われていることがわかった。
書道の本や編み物のキットなどは、フェリッシモhttp://www.felissimo.co.jp/left/で販売されている。鉤針編みについては、英語のサイトになるがクロシェ・ギルド・イン・アメリカが左利き用の学習サイトを作っている。この画像の作り目のところをためしにダウンロードして、反転させてみたところ、手持ちの教則本と一致した。例えば、既存の右利き用の編み方の図をスキャナーで読み取り、水平方向に反転させると左利き用になるかもしれない。お試しいただきたい。
追記・その2 実際に両手ききの人に聞いたところ、鈎針編みを教える場合、学習者と面と向かってすわり、自分がやることと同じように、鏡をみているように手を動かすように指導するとよいそうである。背後にまわって針を使うと、指導者は混乱するからだという。糸のよりが右利き有利だから左利きはきれいにできないという説は疑問だ。リボン状のものやリリアン風の糸などさまざまな素材が出回っているから、利きうでには関係なく、人とは違った個性的な作品をつくることをめざすのが現代的な編み物の世界だろうと思う。
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