10.24.2011

消えるビゴーの「中江兆民」像

ビゴーが中江篤介(兆民)像を描いたということは何を持って確定されたのか。

私の手元には、ビゴーをテーマとした「ショッキング・オ・ジャポン」という1984年文化庁芸術祭受賞映画の監督・藤林伸治氏(1994年逝去)が遺した調査レポート(B4・写真に手書き説明、43ページ)コピーがある。ご本人からも、また同行したエレーヌ・コルヌヴァン氏(故人)からも等しく提供されたものでフランスのビゴーの遺族と作品を取材記録である。その32ページには、1887年7月修善寺で描いた、白い浴衣姿の男の素描の、上から付されたフレーム状の枠について「この部分は表装の際覆われ僅かに②の部分のみ判読し得る」と但し書きがあって、②の部分に「Tokusuke」とされている。その横に

「『三酔人問答』を仕上げた直後の中江兆民像と思われる(兆民はその頃ひどいアルコール中毒と神経症に悩んでいた。ビゴーがどのような心境でこの焦悴したTokusukeを描いたのであろう。-ビゴー自身の投影か)」<以上引用>




という藤林氏の自筆でメモが記されている。藤林氏は『中江兆民全集第五巻』(岩波書店,1984年7月)「月報9」にもこの発見について記している。さらにコルヌヴァン氏が企画し、1987年に開催された美術館連絡協議会主宰の展覧会図録(監修・エレーヌ・コルヌヴァン、清水勲)ではタイトル「中江兆民像」となっており、この時点では確定されていた。

私は、永らくこの像の確定に美術史の専門家が誰も立ち会っていないことに疑問を持っていた。佛学塾に雇われていたことのあるビゴーとしてみれば、雇用主でしかも大人物の兆民をこのような中途半端な素描で書くだろうかとも考えていた。そこで、最終的にこの素描を受け入れた宇都宮美術館を訪ねて、問題のフレームをこの目で見てみたいと思っていた。思いつつできなかったのは、ここ数年、親の介護問題や義父の逝去に伴うさまざまな雑事に追われていたからである。ようやく落ち着いてきたころ、小杉放菴記念日光美術館が改修中の宇都宮美術館所蔵作品を一時預かっているとの情報がもたらされ、実見する機会を得た。

ところが、宇都宮美術館収蔵当時から素描はフレームを伴わない状態だったという。作品タイトルも「修善寺の温泉客」(所蔵番号B56)にしているとのことだった。私は困惑し、猛暑のなか法政大学大原社会問題研究所所蔵となっている藤林氏の映画制作資料を閲覧した。作成報告書というスクラップに張り込まれた本人の手製のドキュメント集成では、私の所蔵する藤林氏作成のレポートと同一のものは全く存在しなかった。白いフレームのままの写真が張り込まれ、上記のメモは全くなかった。また、取材撮影写真の記録では、真っ白いフレームの横の余白に縦書きのペンで「中江兆民」との書きこみが見られるだけだった。

この再証不能状態は史的根拠がそもそもなかったか、ある時点で失われてしまったということを意味している。

仮にフレームに「Tokusuke」と書かれていたとしても、トクスケという人なのかどうかは不明だ。また、中江トクスケであったとしても、フレームと原画の素描の関係は慎重に検討する必要である。 もし、素描をもとに中江トクスケとフレームに記したことが立証されたとしても、そこからビゴーが自由民権運動に加わり、中江兆民がビゴーの「トバエ」編集にかかわったとまで論ずることは飛躍がありすぎる。

故・藤林氏は、自由民権運動100年記念で得た映画制作予算を元にフランスで取材を続け、なんとしても自由民権運動とビゴーを結び付ける根拠を得たいと考えていた。当時存続していた著作権継承の及ばない範囲の、南仏の遺族関係者の家で、憔悴した兆民のように見えた男、修繕寺の一湯治客の像からフィクションとしてドキュメンタリ映画に華を副えようとしたのかもしれない。この創作過程について、私は問うつもりは全くない。

問題は、ドキュメンタリー映画とはいえ、シナリオには史的根拠から離れたところも多い創作的な映像を史料と取り違え、憶測を重ねてしまった人達の歴史研究に関する手続きにある。また、美術史の傍流にいたビゴーに中江兆民というビッグネームをつけることに、出版市場、イベント化した美術展示市場は安易に便乗してきたのである。そして、作品の市場価値は上がり、当然、投資回収効果も上がったと推定される。

初出は、管見の限り「ビゴー素描コレクション2 明治の世相」(岩波書店、1989年)であり、一連の岩波書店の出版物によって、現在では、漫画史では定説となっているこの誤謬は誤謬として、正当な手続きをもって訂正されるべきであり、研究上の最低限の倫理を、私は要求したい。

ビゴーの「中江兆民像」は消費し尽くされたのち、ひっそり姿を消しつつある。(山口順子)